玉川上水の歴史
玉川上水の歴史
年表
| 元号 | 西暦 | 事項 | |
|---|---|---|---|
| 江戸 | 天正18年 | 1590 | 徳川家康江戸入府 |
| 承応元年 | 1652 | 江戸幕府が多摩川の水を引き入れる上水の整備を計画 | |
| 承応2年 | 1653 | 庄右衛門、清右衛門兄弟、幕府の命により工事を請負い、玉川上水工事着工 | |
| 承応3年 | 1654 | 給水開始 | |
| 承応4年 | 1655 | 野火止用水開通 | |
| 寛政3年 | 1791 | 普請奉行石野広通が、玉川上水の管理体制や施設の様子に触れた『上水記』(全10巻)を作成 | |
| 明治 | 明治元年 | 1868 | 東京府の所管となる |
| 明治3年 | 1870 | 通船事業の開始 | |
| 明治26年 | 1893 | 三多摩地域の東京府編入、東京府が上水道として玉川上水を一元管理 | |
| 明治31年 | 1898 | 淀橋浄水場から神田・日本橋方面への給水を開始。玉川上水は、浄水場への導水路として利用 | |
| 明治34年 | 1901 | 玉川上水からの給水を停止 | |
| 昭和 | 昭和40年 | 1965 | 淀橋浄水場廃止に伴い、小平監視所より下流部への通水停止 |
| 昭和61年 | 1986 | 清流復活事業により、小平監視所~浅間橋間に下水の高度処理水を通水 | |
| 平成 | 平成11年 | 1999 | 「東京における自然の保護と回復に関する条例」により「玉川上水歴史環境保全地域」指定 |
| 平成15年 | 2003 | 土地についての都の所有権が認められ、史跡指定を申請 | |
| 「玉川上水」が文化財保護法により、国の史跡に指定 | |||
| 平成19年 | 2007 | 「史跡玉川上水保存管理計画」策定(東京都水道局) | |
| 平成21年 | 2009 | 「史跡玉川上水整備活用計画」策定(東京都水道局) | |
| 令和 | 令和7年 | 2025 | 「史跡玉川上水整備活用計画(改定版)~江戸の史跡を守り 未来へつなぐ~」策定(東京都水道局) |
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天正18年(1590年)に江戸に入府した徳川家康は、江戸城東側の低地を埋立てることで、江戸の街の基盤を造り始めました。しかし、海に近い低地や埋立地では井戸を掘っても良質な水を得られなかったため、早い段階から上水道の設置が計画されました。
上水創設の時期については、家康入府に当たって家臣大久保藤五郎が命を受け、水道を計画・整備したという伝承があります。実際の創設の年代については諸説ありますが、史料からは、江戸時代の初め(寛永末年頃)までには、井の頭池に発する現在の神田川を水源とした「神田上水」が完成していたと考えられます。
【神田上水掛樋の様子(東京都立図書館所蔵『東都御茶之水風景』)】また、神田上水以外にも、現在の地下鉄溜池山王駅付近にあった溜池を水源とする上水が存在していたという記録も残されています。
【溜池の様子(広重『名所江戸百景 赤坂桐畑』,魚栄,安政3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1312287 (参照 2025-12-22))】三代将軍家光の時代に参勤交代の制度が確立すると、大名やその家族、家臣が江戸の町に住むようになり、人口増加が加速しました。次第に既存の上水だけでは足りなくなり、新しい水道の開発が必要になりました。
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承応元年(1652年)、幕府は多摩川の水を江戸に引き入れる壮大な計画を立てました。設計書の検討及び実地調査の結果、工事請負人を庄右衛門、清右衛門兄弟に決定し、工事に際しては老中松平伊豆守信綱、代官伊奈半十郎忠治らが関わったと伝えられています。
【玉川兄弟の像】工事は、承応2年(1653年)4月4日に着工し、わずか8か月後の11月15日(この年は閏年で6月が2度あるため8か月となります。)、羽村取水口から四谷大木戸に至る全長約43キロメートルの水路が完成したと伝えられています。この水路は周囲の土留め等を行わない素掘りですが、武蔵野台地の地形を巧みに活用することで、羽村取水口と四谷大木戸との標高差が92メートルしかないにもかかわらず、自然に水が下流に流れるようになっています。
【工事の様子(イメージ)(羽村市郷土博物館所蔵、『玉川上水 その歴史と役割』第3版第3刷(羽村市教育委員会、平成23年(2011年))より)】翌年6月には江戸市中の地下に石樋、木樋による配水管を布設し、江戸城をはじめ、四谷、麹町、赤坂の台地や芝、京橋方面に至る市内の南西部一帯に給水しました。
兄弟は褒章として玉川の姓を賜り、200石の扶持米をいただくとともに永代水役を命ぜられました。
なお、玉川上水開削の経緯には諸説あり、「玉川上水紀元并野火留分水口之訳書*」という文献では、工事は2度失敗しており、松平信綱の家臣で野火止用水の開削者である安松金右衛門の設計により羽村に取水口を決定し、工事を成功に導いたとされています。
【江戸時代の水道(享保2~3年(1717~18年)頃)、『東京市史稿 上水篇 第一』(東京市役所、大正8年(1919年))※天地反転)*玉川上水紀元并野火留分水口之訳書
享和3年(1803年)に、八王子千人同心の一人である小島文平が、先祖の言い伝えや地元の伝承をまとめ、普請奉行佐橋長門守に提出した報告書で、玉川上水開削の起こり、分水に関する記載がなされている。
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玉川上水は江戸市中への給水を目的として造られましたが、水の乏しい武蔵野台地が流路となっていたことから、近隣の村々から余水を利用したいとの要望が数多く出されるようになりました。
近隣農村の灌漑用や飲用目的での分水は、玉川上水開設直後から始まり、「上水記」によれば、寛政3年(1791年)頃には、羽村取水口から四谷大木戸までの間で33分水が設置されていたと記録されています。こうした分水の中でも、最初に設置されたのが野火止用水です。老中松平信綱が玉川上水開削の功により許可されたものとも言われ、玉川上水の水を川越藩領野火留村に分水しており、33の分水の中でも特に規模の大きなものでした。
これらの分水は、飲料水、かんがい用水及び水車の動力として利用され、水の乏しい武蔵野台地の開発に貢献しました。
また、明暦の大火の後には、江戸の街の拡張に伴う水道需要の拡大に対応するため、玉川上水の分水として青山、三田、千川の3上水が設置されました。これら3上水は享保7年(1722年)に廃止されてしまいましたが、三田、千川の2上水についてはその後も、灌漑用水として使用されました。
【目黒新富士と三田用水(広重『名所江戸百景 目黒新富士』,魚栄,安政4. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1312260 (参照 2025-12-22))】廃止の理由について、当時の触書には新たに設置した上水であるためと示されていますが、分水を含む玉川上水の水量確保が理由だったのではないか、とも言われています。またこの他にも、儒学者である室鳩巣(むろ きゅうそう)が火災予防のためには水道を廃止すべしと献言したため、という説も伝わっています(「献可録」)。
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給水開始後暫くの間は、玉川兄弟の子孫が幕府の所管部署の下で管理や修復を担っていましたが、その後玉川上水の管理は幕府が直接担当するようになりました。
玉川上水沿いには「水番屋」(水番所)という施設が置かれ、そこを基点に「水番人」と呼ばれる町人(農民)が水の量の確認や芥留(ゴミを留めるスクリーン)の清掃等を行っていました。
【四谷大木戸水番所(国立公文書館所蔵『羽邑臨視日記』より、※一部改変)】玉川上水沿線の村々は、それぞれ持ち場を割り当てられており、注意書きを示した高札を管理し、その内容を徹底するとともに、土手の草刈りや堀の掃除、役人の通行の補助といった仕事を担っていました。こうした村々は「持場村」と呼ばれていました。
この他にも、玉川上水の普請(工事)や修復は、工事内容を記載した触書を見た町人が入札し、落札した町人が工事を請け負う、という形で行われていたとされています。
また、玉川上水沿いには桜や松などの樹木が植えられましたが、大木になると落葉が多くなり、上水管理に支障を来すことから、大きくなった樹木の伐採が行われていたという記録もあります。
玉川上水の管理体制、当時の施設の様子などについては、『上水記』という文献にまとめられています。『上水記』は寛政3年(1791年)に、当時の普請奉行石野広通が作成した全10巻の書物で、玉川・神田両上水の概要に始まり、上水の管理体制や施設の絵図面などが掲載されています。
【『上水記』(東京都指定有形文化財(古文書))】
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明治維新により江戸は東京へと名前を変え、その管理も幕府から明治政府へと移りましたが、玉川上水は当面の間、江戸時代と変わらずに使用されました。
1)通船事業
一方この頃、短期間ではありますが、玉川上水において通船(船による物資の輸送)が実施されています。水質への影響や地元の反発等から、江戸時代には実現しませんでしたが、地元の名主らから出願を受けた明治政府は、通船の実施を許可しました。
通船に伴う水量確保のための分水の整理、水路の改修、船溜まり・物揚場の整備などが行われ、明治3年(1870年)4月、羽村から内藤新宿まで玉川上水を船が往来し、大変な繁盛だったとの記録が残っています。
なお、現在小平監視所の下流左岸に玉川上水と並行して流れている小平分水(新堀用水)は、明治3年(1870年)、通船準備のため野火止用水から千川上水までの9本の分水を一つの分水口にまとめるために掘られたものです。
しかし、明治5年(1872年)5月、わずか2年で通船は廃止されました。通船に伴う水質の悪化が理由と考えられています。その後、地元の名主らが再開の要望を提出しましたが、認められませんでした。2)近代水道の創設
明治時代に入ってしばらくすると、玉川上水の役割にも転機が訪れます。当時の玉川上水は江戸時代と同様、自然流下により多摩川の水を運び、そのまま飲用等に用いていましたが、塵芥や泥水等の流入、木樋の腐朽、市中でのコレラ流行といった問題が発生していました。
水源保全のため玉川上水等がある三多摩地方の東京編入等も行われましたが、浄水場でろ過した水を鉄管で給水する近代的な水道の整備が求められるようになり、明治31年(1898年)12月、淀橋(現在の新宿区西新宿)に設置された浄水場から神田、日本橋方面への給水が始まりました。
【淀橋浄水場機関室(『東京市水道小誌』(東京市、明治44年)より)】3)近代水道創設後の玉川上水
近代水道創設を受け、玉川上水は明治34年(1901年)に市内への給水を停止し、淀橋浄水場に原水を運ぶための施設へと役割を変えました。
ただ、従来の玉川上水路は淀橋の南側、標高の低い部分を通っており、そのままでは淀橋浄水場に原水を流すことが出来ませんでした。
そこで、代田橋付近から淀橋浄水場まで、全長約4キロメートル(2,127間)にわたる「新水路」を整備し、これを通じて原水を流すこととなりました。その後、昭和12年(1937年)に甲州街道に導水暗渠が出来たことで新水路は廃止され、跡地は現在道路等となっています(現在の都道431号線)。
新水路整備に伴い、代田橋下流の従来の玉川上水路は「旧水路」と呼ばれるようになりましたが、関東大震災で新水路が被害を受けた際には、旧水路から原水をポンプで揚水して淀橋浄水場に運び、東京市中に給水を行いました。
また、原水導水路である玉川上水路を適切に管理するために、熊川、砂川、小川、境、久我山、和田堀、淀橋、大木戸の8箇所に水衛所が設置されました。江戸時代の水番所の機能を受け継ぐもので、水衛所の職員(水衛)は、水路の下流から上流に向かい、各水衛所間を受け持ち区域としていました。
【新水路分岐点・引入口(東京都水道歴史館所蔵)】
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1)淀橋浄水場の廃止
原水導水路として東京の都市生活を支えてきた玉川上水ですが、戦後、再び大きな転機が訪れます。
昭和40年(1965年)3月末に淀橋浄水場が廃止され、東村山浄水場に機能が移されました。その結果、羽村で取水されて玉川上水を流れてきた原水は、野火止用水との分岐点から東村山浄水場に管路で送られることとなり、下流には原水が流れなくなりました。
上水の管理組織にも変化があり、昭和38年(1963年)には小川水衛所が廃止されて小平水衛所(現在の小平監視所)が設置されたほか、昭和55年には熊川、砂川、境、久我山、和田堀の各水衛所も廃止されました。
【小平水衛所(東京都水道歴史館所蔵)】2)清流復活
水の流れの途絶えた小平監視所下流では、暗渠上部や水路沿いに公園・緑道等が整備されましたが、法面や護岸の崩落、ごみの不法投棄といった問題が発生していました。こうした状況を憂慮した玉川上水を愛する人々の尽力もあって、東京都は昭和57年(1982年)に玉川上水に再生水を放流する「清流復活事業」の実施を決定し、昭和61年(1986年)に水の流れが復活しました。
【玉川上水路(東京都水道歴史館所蔵)】
【一時水の流れが途絶えた玉川上水(昭和59年(1984年)、小平市立図書館所蔵)】この事業で放流されているのは、東京都下水道局多摩川上流水再生センター(昭島市)で処理された再生水です。再生水は小平監視所付近の放流口から玉川上水に放流され、約18キロメートル下流の浅間橋(杉並区)付近まで流れた後、管路を通じて神田川に合流しています。
【清流復活用水の放流口】なお、野火止用水(昭和59年(1984年))及び千川上水(昭和63年(1988年))も清流復活事業により流れが復活しています。
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1)歴史環境保全地域の指定
淀橋浄水場廃止後、玉川上水の一部が暗渠化されると、地域の人々を中心に、玉川上水保全の運動が起こりました。都市化の進展とともに、宅地化され緑の少なくなった武蔵野台地にあって、玉川上水は、身近な水と緑の空間として、また、郷土史、文学史等の歴史的背景からも、流域の人々に特別な愛着を持たれています。
そこで、東京都では、「東京における自然の保護と回復に関する条例」に基づき、平成11年(1999年)3月、玉川上水を歴史環境保全地域として指定し、歴史的価値の高い水路、法面、多摩地域から都心に伸びる樹林帯としての自然環境、水辺環境などを後世まで保全することとしました(平成14年(2002年)に区域拡張)。
※保全地域・・・玉川上水路の羽村取水口(羽村市)から新宿区(四谷大木戸)までの区間の水道局管理用地のうち開渠部分
2)国の史跡指定と計画の策定
竣工350年を迎えた玉川上水は、平成15年(2003年)8月、江戸、東京の発展を支えた歴史的価値を有する土木施設・遺構として、文化財保護法に基づき、国の史跡に指定されました。東京都水道局は、学識経験者や関係局、地元市等と検討を重ね、平成19年(2007年)3月、「史跡玉川上水保存管理計画」を策定し、保存管理の長期的指針を定めました。
また、平成21年(2009年)8月には、素掘りの水路が多く残り特に保全が必要な中流部(小平監視所から浅間橋まで)を対象に、保存管理計画で示された方針等に基づいて、関係機関と連携して取り組むべき施策をまとめた「史跡玉川上水整備活用計画」を策定しました。
その後、整備活用計画に基づき、法面の補強工事や水路及び樹木の適切な管理などを進めてきましたが、現在、これらの整備に引き続き取り組むとともに、新しい課題にも対応する必要があることから、令和7年(2025年)1月に「史跡玉川上水整備活用計画(改定版)~江戸の史跡を守り 未来へつなぐ~」を策定・公表しました。
当局は、今後も関係機関等と連携しながら、史跡・名勝の価値と保存の必要性が広く理解され、貴重な「土木施設・遺構」として、また、人々に親しまれる「快適な水と緑の空間」として、玉川上水が次の世代へと引き継がれるよう努めていきます。