東京近代水道ギャラリー
東京の近代水道の歴史は、明治31(1898)年、淀橋浄水場からの給水開始をもって始まり、令和5(2023)年に125周年を迎えました。ここでは、近代以前の歴史とともに、明治31(1898)年に始まる近代水道125年の歩みをご紹介しています。
近代以前の水道
徳川家の江戸入国後、徳川家康から家光の時代には神田上水を、四代将軍徳川家綱の時代には、多摩川から江戸に水を引くため、庄右衛門・清右衛門が玉川上水を整備しました。これらが今日の東京水道の遠い起原です。
神田上水神田上水は、井の頭池、善福寺池及び妙正寺池を水源とする上水で、寛永6(1629)年頃に完成したと言われています。玉川上水と共に明治時代まで続きましたが、近代水道が整備されたことを受けて撤去されました。水道歴史館では、発掘された当時の石積みの水路を見ることが出来ます。 |
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玉川上水玉川上水は、江⼾市中への給水を⽬的として整備された、⽻村から四⾕大⽊⼾までの約43㎞の水路です。庄右衛⾨、清右衛⾨兄弟が工事請負人となって整備が始まり、承応3(1654)年にしゅん工しました。この工事を完成させたことで、庄右衛⾨、清右衛⾨兄弟は「玉川」の姓を名乗ることを許されました。 |
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羽村取水堰羽村取水堰は、玉川上水と同時に建設され、承応2(1653)年に完成しました。川をせき止める堰、魚などが行き来する魚道やせき止めた水を取り入れる第一水門から構成されています。堰は固定堰に加え、「投渡堰」というとても珍しい形式の堰が設けられています。 |
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江戸時代の水道管上水を通じて流れてきた水を市中に運ぶため、江⼾市中には⽯積みの水路(⽯樋)、木製の水道管(木樋)及びますなどが設置されていました。最も多く使用されたのは木樋で、その製作及び取付けには、船内への水の浸入を防ぐ船大工の技術が多用されたと言われています。 |
近代水道の創設
悪化する水質の改善のため、鉄管で給水する近代水道の整備が進められ、明治31(1898)年12月には淀橋浄水場からの給水が始まりました。水道需要の急増を受け、近代水道創設直後から拡張工事に着手する一方、荒廃する水源地の管理や関東大震災からの復興など、様々な課題に取り組んできました。
淀橋浄水場淀橋浄水場は、東京の近代水道における初の浄水場として淀橋(現在の新宿区⻄新宿)に建設されました。明治31(1898)年12 月には大部分しゅん工したことから、神田・日本橋方面への給水を開始し、翌明治32(1899)年にはろ過池が完成したことから、ろ過処理された浄水を鉄製の水道管を通して給水するようになりました。 |
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中島鋭治博士文部省留学生として衛生工学を欧米諸国で研究中だった中島鋭治氏は、内命を受けて帰国し、近代水道の設計の精査を行いました。彼は現地測量の結果等を踏まえて、浄水場の建設位置を千駄ヶ谷から淀橋町へ移すこと等を提案し、最終的にはこれが受け入れられて、設計書が変更されました。これにより、近代水道最初の浄水場が淀橋に建設されることが決まりました。 |
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荒廃した水源地明治時代に入り、乱伐や開墾等により、多摩川上流の山林では荒廃が進んでいました。これを憂慮した東京府は明治34(1901)年、山梨県下の丹波山村、⼩菅村の約8,140㏊ 及び府下の日原川上流約320㏊ の御料林を譲り受け、水道水源林の管理を開始しました。後に、水道水源林の管理は東京市によって進められました。 |
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関東大震災大正12(1923)年9月1日午前11 時58 分、相模湾北⻄部を震源地とするマグニチュ−ド7.9の地震が関東地方を襲い、東京、横浜など東京湾及び相模湾沿岸の諸都市に甚大な被害を与えました。東京の水道も、多数の給水栓が焼失する等大きな被害を受け、各所で応急給水が行われました。 |
東京水道の拡張
戦争による中断期間を挟み、戦前の計画に基づく施設整備が着々と進められました。戦後には悲願であった利根川水源の利用も実現し、今日の東京水道の基幹となる多くの施設が建設されました。
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村山・山口貯水池村山・山口貯水池(多摩湖・狭山湖)は、東京の拡大に伴う水不足を解消するために計画された「第一水道拡張事業」によって造られた人造湖です。村山貯水池(多摩湖)は、上流側の村山上貯水池と下流側の村山下貯水池に分かれ、上貯水池が大正13(1924)年、下貯水池が昭和2(1927)年に完成しました。また、山口貯水池(狭山湖)は昭和9(1934)年に完成しました。 |
小河内ダム⼩河内ダムは多摩川を水源とする「第二水道拡張事業」の下、現在の東京都⻄多摩郡奥多摩町に建設されたダムで、昭和32(1957)年に完成しました。945 世帯の移転と工事における87 名の殉職者の尊い犠牲の下に完成した⼩河内ダムは、今日でも、東京の安定給水の確保に重要な役割を果たしています。 |
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淀橋浄水場の閉鎖⻑らく東京の近代水道を⽀えてきた淀橋浄水場は、周辺の市街化と副都心計画の進展により閉鎖が決まり、昭和40(1965)年3月31 日、約70 年の歴史に幕を閉じました。浄水場の跡地は、現在、東京都庁を始めとする高層ビル群へと生まれ変わっています。 |
量から質への転換
需要の増加が落ち着く一方、原水水質悪化が問題視され、高度浄水処理の導入等による「質」の向上が大きなテーマとなりました。また阪神・淡路大震災を受けた震災対策の強化など、「安全でおいしい水」の実現に向け、様々な取組を行ってきました。
100年後の水道水源林明治34(1901)年の管理開始以来、広大な森林の管理を継続し、平成13(2001)年に水道水源林は管理開始100 周年を迎えました。豊かな水源の森を着実に保全育成し、東京の水道水のふるさととしてこれからも守り続けていきます。 |
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村山・山口貯水池堤体強化当局では、阪神・淡路大震災後に制定された新たな耐震設計基準等を基に村山・山口両貯水池の耐震診断を実施し、より一層の耐震性の向上を図るため、堤体強化工事を行うこととしました。山口貯水池は平成14(2002)年に、村山下貯水池は平成21(2009)年にそれぞれ完成式を迎え、現在は村山上貯水池の堤体強化工事を進めています。 |
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高度浄水処理の導入高度浄水処理とは、通常の浄水処理に加え、オゾンと生物活性炭による処理を行うもので、オゾンと生物活性炭の力でかび臭の元となる物質等を分解、除去することで、より安全でおいしい水をお届けできるようになります。当局では利根川水系の全浄水場で高度浄水処理の導入を進め、平成25(2013)年度に利根川水系高度浄水処理100%を達成しました。 |
記事ID:081-001-20240819-006321