STEP21 第2章 東京水道100年のあゆみ

 長期構想の策定に当たっては、東京の近代水道の発祥から今日に至るまでの拡張の歴史を振り返り、東京水道の成り立ちを踏まえ、将来のあるべき姿を考えることが必要である。


2−1 近代水道の創設と拡張事業の推進

 明治維新前の東京の水道は、神田上水と玉川上水より給水していた。配水は、木樋や石樋により行っていた。
 神田・玉川上水は、江戸が東京と改まってからも、市民の重要な水道施設であった。しかし、木樋の腐朽やし尿の浸透による水質悪化、また、消火に役立たないことなどから、鉄管による有圧水道の創設が望まれていた。さらに、明治19年のコレラの大流行によって、改良水道事業の促進に拍車がかかった。
 明治23年7月、東京市区改正条例に基づく改良水道の設計告示(現在の都市計画決定)がなされ、近代水道を建設する計画が具体化され、明治25年に着工した。そして、明治31年(1898年)12月に淀橋浄水場が完成し、神田・日本橋地区に初めて給水され、ここに、東京の近代水道の歩みが始まった。
 この水道は、玉川上水の導水路を利用して、多摩川の水を新設した淀橋浄水場に導いて沈澱、ろ過を行い、ポンプ圧または自然流下で給水するものであった。
 その後、給水区域を拡大し、翌32年11月には市内全域に給水が行われた。淀橋浄水場の給水能力は、使用者が大幅に増加したため、計画当初の日量17万m³から24万m³へと能力増強を行い、明治44年に全工事が完成した。この頃は、約140万人に給水していた。

 近代水道の創設に伴い、江戸時代から市民に親しまれてきた神田・玉川上水は明治34年に廃止となった。また、同年、東京府は木材需要増で荒廃していた多摩川上流部の御料林を水源林として譲り受け、明治43年からは、東京市が水源林の本格的経営に着手した。
 大正2年には、需要が更に急増したことから、多摩川を水源に、村山貯水池(山口貯水池を後に追加)、境浄水場などを建設する第一水道拡張事業に着手し、昭和12年に全てを完了した。
 一方、大正12年に発生した関東大震災後、都市化が進んだ隣接町村地域では、次々に水道が開設されていった。昭和7年に隣接町村が東京市に編入され、これに伴って町営及び町村組合営の周辺10水道を統合した。さらに、昭和20年までの間に民営3水道も買収し、現在の特別区の区域における水道はひとつとなった。

 また、昭和7年には、小河内ダム、東村山浄水場の建設を主体とする第二水道拡張事業が東京市議会で決議されたが、二ヶ領用水組合との水利権の調整に時間を要し、昭和13年にようやく着工した。しかし、第二次世界大戦の影響により、昭和18年、工事を一時中止した。
 そのほか、江戸川を水源とする応急拡張事業、利根川を水源とする第三水道拡張事業等が計画されたが、いずれも第二次世界大戦のため工事は一時中止、又は未認可で終わった。

2−2 戦後の復興と拡張事業の再開

 第二次世界大戦の東京への空襲により、導水路や浄水場、配水管などが被害を受けたが、致命的なものはなかった。しかし、末端の給水栓の被害は、焼失栓約56万栓、建物疎開による撤去9万栓と、当時の給水栓約94万栓の約70%にも及んだ。
 このため、戦後の漏水率は一時は80%とも推計され、漏水防止が急務であったことから、応急手段として鉛管を叩きつぶして水を止め急場をしのいだ。その後、地下の漏水箇所の修理も行い、昭和24年3月には、漏水率を約30%まで低下させた。
 また、昭和21年8月、アメリカ軍は、衛生面を重視し、塩素注入率を大幅に強化するよう指令してきた。戦前は、塩素は特定の期間にだけ注入し、注入率も低かったため、この指令の実施は容易ではなかったが、体制を整え指令通り実施した。
 昭和23年からは、東京の復興による水道需要の急増に対処するため、第二水道拡張事業及び応急拡張事業を再開し、昭和25年には長沢浄水場の建設を主体とする相模川系水道拡張事業に着手した。
 昭和32年、小河内ダムが着工以来20年目にして完成し、昭和34年には長沢浄水場が完成した。

2−3 多摩川から利根川へ

 昭和30年代後半から40年代には、高度経済成長に伴う首都圏への産業と人口の集中、下水道の普及等により、配水量は毎年日量20〜30万m³増加した。
 昭和32年には明治23年以来の水道条例に代って水道法が施行され、給水の清浄、豊富、低廉を確保することが規定されたが、逆に、この時代から水道経営は、需要の増大、水源開発の遅れ、水質汚染への対応、財政の悪化と苦しい時代を迎えた。
 昭和33年からは、水源の不足に加えて、毎年のように渇水が起り、昭和36年からは多摩川の長期渇水が続き、そのピークは「東京砂漠」といわれた東京オリンピックが開催された昭和39年である。
 当時は、各浄水場の給水区域を連絡する施設が少なく、多摩川を水源とする東村山浄水場などの給水区域のみ給水制限されていた。東京オリンピック開催を目前に控えた昭和39年8月、利根川系と多摩川系を結ぶ原水連絡管が完成し、荒川の余剰水を東村山浄水場へ緊急導水することにより、東京の危機を回避することができた。

 このように、昭和30年代以降、東京をはじめとする大都市地域で深刻な水不足が発生し、水の供給問題は国家的な課題となったため、昭和36年「水資源開発促進法」、「水資源開発公団法」が制定された。この二つの法律に基づき、昭和37年には「利根川水系における水資源開発基本計画」(通称フルプラン、昭和49年に荒川水系も追加)が策定され、国に代り事業を実施する水資源開発公団が発足した。
 東京も、多摩川の水源開発が限界に達していたことから、これ以後、このフルプランによる施設に水源を依存することとなった。
 利根川からの導水計画は、オリンピック渇水を契機に促進され、昭和40年には利根川と荒川を結ぶ武蔵水路が通水した。こうして、大正15年、東京市議会が「将来水源ハ、利根川ニ求メラレタシ」と決議し、長年の悲願であった「利根川の水を東京へ」が実現した。
 昭和42年には矢木沢ダム、翌43年には下久保ダムが完成した。
 これらの水源施設の完成と前後して、昭和35年には金町浄水場の拡張を図る江戸川系水道拡張事業、昭和37年には中川・江戸川系水道緊急拡張事業に着手した。さらに、昭和38年には第一次利根川系水道拡張事業に着手し、引き続き第二次から第四次にわたる一連の利根川系水道拡張事業を進めた。このように、拡張事業が終わらないうちに、次の拡張事業に取り組まなければならないほど需要が増え続けた。
 第一次、第二次及び第三次利根川系水道拡張事業は、金町、東村山浄水場の拡張、朝霞、小作、三園浄水場の新設を行い、日量380万m³の施設能力の増強と導送配水施設などを整備して昭和51年に完了した。
 この間、昭和40年3月には、近代水道として創設された淀橋浄水場が、新宿副都心計画の具体化に伴い、廃止された。
 この頃から、工場、家庭排水は、水源である河川を汚染し、玉川浄水場は、水源である多摩川の水質悪化により、昭和45年から取水を停止しており、江戸川では、昭和47年頃から夏期にかび臭が発生し、金町浄水場では粉末活性炭注入を余儀なくされた。
 また、昭和40年以降は、水不足に悩む多摩地区市町水道に対し、浄水の分水を行う一方、多摩地区と区部との水道格差を是正するため、同地区の30市町村(その後の合併により現在29市町)の水道を都の水道に一元化する計画をたて、昭和48年から現在までに24市町水道が一元化されている。これに併せ、多摩水道施設拡充事業等により施設整備を実施した。
 この一元化を始めた昭和48年1月には、節水PR、循環利用などの「水道需要を抑制する施策」を発表した。これは、水道需要の急増、水資源開発の遅れや水資源の有限性という問題に対し、余剰水取水等の特別措置を考えても、水道需要を計画的に抑制していく必要があることから行ったもので、当時としては画期的なことであった。
 第四次利根川系水道拡張事業は、昭和47年から着手し、昭和60年6月、同事業の主要施設である三郷浄水場の第一期工事(55万m³/日)が完成した。
 その後の水道施設整備は、水源から浄水施設までを「水源及び浄水施設整備事業」、区部と多摩地区の送配水施設をそれぞれ「区部配水施設整備事業」、「多摩配水施設整備事業」として実施しており、三郷浄水場の第二期工事(55万m³/日)は、水源及び浄水施設整備事業に引き継がれ、平成5年5月に完成した。
 また、平成4年には、金町浄水場で高度浄水処理を導入するなど、原水水質の汚濁問題にも対応してきている。

2−4 新たな時代に向けて

 東京の水道は、このように首都の発展に伴って急激に増加する水道需要に見合う施設の拡張を行い、都民の要望に応えて発展を続け、昭和63年には給水普及率100%を達成した。
 今日では、給水区域は特別区23区と多摩地区24市町、給水人口約1,100万人、施設能力日量696万m³と、世界でも有数の大規模水道となっている。
 我が国の近代水道は伝染病を予防する衛生施設として生まれ、公衆衛生を飛躍的に向上させ、さらに人々を水汲みの重労働から開放する利便施設、また、消防施設として生活環境の改善に大きく貢献した。そして、現在では、水道は人々のくらしと都市の活動を支える都市基盤施設、まさしくライフラインとなっている。
 東京においては、今日、水道が生活や都市活動に必要な水を得る唯一の手段となっており、水道の果たすべき役割はますます重要になっている。
 しかし、現在、東京の水道のおかれている状況を見ると、頻発する渇水による取水制限、水源水質の悪化、震災時の給水の確保や施設の老朽化など、様々な課題を抱えている。
 また、水道を取り巻く社会状況を見ると、生活の豊かさとゆとりを求める時代へと変化してきている。
 今後は、このような新しい社会潮流を踏まえ、長期的な視点に立ち、水道使用者の立場に一層配慮しながら、質的な充実を図るなど、新たな水道事業の展開を図っていく必要がある。

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